情動性の強い人物は小説にインパクトや波を立ててくれて興味深い存在かもしれないが、現実に身の回りにいたら、ただただ疲れるだけである。
たとえば情動性の強い母。それを娘が客観的に見ている。それだけで小説が書けると思って、以前メモをしておいた。
村上春樹が、やはり簡単なメモをプリントアウトしておき、それを引き出しに一年とか数年とか入れておいて、やがて書き始めると案外一気に書いてしまうとインタビューで語っていたので、なんとなくメモを出して読み直してみた。
これは多分、井上光晴の短編集『誰かの関係』に収められた「お菓子の時間」のような作品を念頭に置いていたと思うのだが、情動性の強い母親という点で井上光晴の作品のような微妙なバランスをとりにくい事が明らかだ。
本来は理知が情動の無限定な発動にブレーキをかけていて平穏な生活ができるはずだが、情動がクーデターを起すと理知などというものはどこかへ雲散霧消してしまう。
そうなると家族、友人、知人、だれ構いなく騒動に引きずり込んでしまうのだが、困ったことに理知がどこかへ消し去られてしまっているので当人には周囲に迷惑をかけているなどという簡単な認識さえ出来ない。
娘はそれを客観的に見ているので、そんな母親の狂態を見てひそかに苦悩している。
そこから先、娘は母をどう処遇するか。その選択肢が案外多すぎて、メモのまま放擲しておいた。
家を出るとか、母を刺すとかいった「行動」的な選択肢は小説としてすでにあまりに古典的すぎ、今では恥ずかしくて使えない。母以上に情動的に生きるというのも昔流行った小説のタイプである。そういった典型的な行動的選択肢ではない選択肢が欲しい。
少なくとも、この娘には自分が現にかく在るという現象や理由を「母親のせい」にだけはして欲しくない。人間の存在理由は「他者」の下にあるのではなく、「自分自身」のなかにあるのだと、そういう認識に至る方向性だけは確保したい。
人間というのは、何かにつけて自分の現在在《あ》る姿を「ひとのせい」にしたがるものだから、これが結構むずかしい。いずれにしても認識によって母を乗り越えるという方向性でしか解決の方法はないような気がするが、ただそのまま書いては素っ気なく、つまらないものになってしまう。
あれから、ほとんど前進していませんね。
今日はまた午前中にすずらん峠往復ドライブ。帰宅後、夕方のTVニュースを見たら、女神湖手前を北に入った林道で東京で行方不明の女性の遺体が発見されたと。だいたいの場所の見当はついたが、また日曜日にあそこを通るんですが……。
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