新潮文庫の「ダブリン市民」が新訳に変わって、柳瀬尚紀訳の「ダブリナー」となったようだが、さて......。
初めて読んだ訳は、初恋の相手にも似て捨てがたいものがあるのだが、さりとて颯爽と現われた新顔も無視はできない。明日本屋に行ってみよう。実は、明後日、姪の結婚式のため新幹線に乗らなければならないのだが、道中を共にする本が見つからなくて困っていたので、丁度よかった。
エディターを起動させたまま、一字一句も進まず、前野曜子の歌十数曲を聴く。名の知れた「別れの朝」のほかにも、結構いい曲がある。彼女の跡を継いだボーカルが、メリハリの利いたある意味意識的でくどい唄い方をするのに比べ、彼女はどうしてこんなに天然自然素直でありえ、そして、にもかかわらず、なぜ、酒で身を滅ぼしたのか?
彼女が若くして亡くなったのは知っていたが、酒が過ぎて肝臓を壊して亡くなったという詳細は知らなかった。感性に優れている者は往々にしてセルフ・コントロールのすべを知らず。そう考えると、少しは、感性の鈍い自分を肯定できないこともない。あるいは愚鈍であることが生き延びる秘訣であるのかもしれない。
見るに足らないものを、あえて見る必要があるのか。聞くに足らないものを、あえて聞く必要があるのか。書くに足らないことを、あえて書く必要があるのか。生きるに足らないことを、あえて生きる必要があるのか。
これは私の考えではなく、私が書こうとしていまだに数百字のまま先へ進めない短編の主人公が考えていること。あまりに原理主義的すぎて、自縄自縛で前へ進めない。自爆寸前である。
小説は面白くなければならないというテーゼを背負って書いている知人がいるが、私の書くものなど彼の目には明らかに小説失格であろう。だが私にはストーリーや展開の面白さなどどうでもいいのだ。
日本語でいう叙述、フランス語でいうエクリチュール。
あるいは、有ったことも無かったことも、読者に、抗いようもなく、否応もなく現前させる強力無比な話法。
そうか、力んで大袈裟に考えずに、自分なりのダブリン市民を書こうとすればいいのだけれど、それが難しい。
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