2009年2月15日日曜日

それが問題

 ダイアナ・クラールの Temptationがかっこいいと思っていたら、トム・ウェイツもTemptationを唄っていて、ここでフルトラックで聴けるので聴いてみた。
 いや、話はあべこべで、Temptationはもともとトム・ウェイツが作った曲であり、それをダイアナ・クラールが唄っているのだ。
 それにしてもトム・ウェイツのオリジナルはすごい。
 ダイアナ・クラールがかっこいい唄い方とすればトム・ウェイツはかっこ悪さの極致。彼のかっこ悪さは、ひょっとするとブコウスキーやセリーヌのかっこ悪さに通じるのかもしれないと思った。三人とも極めつけの酔いどれ詩人である。

 ↓は、それとは別の「Waltzing Matilda」という曲。






 今夜10:40から30分間、NHKで大阪文学学校の小説クラスの合評会を取材した番組が放映され、見た。毎週一回集まって二編ずつ合評されているというのは実に羨ましい。
 それにしても、二人の作品の合評が取材されていたが、どちらも二人の創作の原点である過去の実人生に回帰していったことに、実は不満。殻を破る、あるいは自己をさらけ出す、そういった方法論は日本固有の「生きること=書くこと」、すなわち私小説的立ち位置に戻れということにほかならず、どうも感心しなかった。
 私には書くことは生きることとイコールではない。むしろ生きられないことを知り、生きることを断念したしたところから書くことがスタートするのであって、だから、生きること=書くことでは決してないのである。
 (偏屈な少数意見に過ぎません)
 そういえば午前中、村山由佳がインタビューされている番組がちらりと目に入り、彼女の声が聞こえた。彼女が田舎暮らしをやめて都会のマンション暮らしに戻った理由を、田舎暮らしは癒されてしまって書くエネルギーが失われるような意味合いのことを言っていた。
 まったくその通り、田舎に暮らしていると、一杯の紅茶があったり、一枚の手打ち蕎麦があればこの世などどうなってもいいみたいな、つまらないものと自分の大事な人生を引き換えにしてしまう危うさがあるのです。
 都会に暮らして神経を尖らせ、いつでもイガイガした存在であること。それこそが小説という言語表現の最大のエネルギー源なのかもしれないと思うと、絶望的。
 いや、そうではなくて、多分、ボクシング同様、いかにハングリーかなのかもしれません。自己のあり方、この世の在り方にどれだけ不満足=ハングリーであり得るか、それが問題。


 今日も午後2時間ほどチエーンソーを振り回した。
 おお、そういえば昨日は金曜日の13日で、絶好のチエーンソー日和だったではありませんか。

 創作、遅々として進まず。
 多くの読者に読まれ、共感される小説など書けるはずもなく、たったひとりの読者だけををイマージュして書くべし。
 たったひとりの読者ってだれ? って......、それは言うまでもありません。

 ジョイスの「ユリシーズ」最終章を真似て、改行無しで段落もひとつだけというのはどうだろう?

 2行半だけ書き加えたが、明日、また削除する可能性99%。

 

3 件のコメント:

  1. まったく、そうなのです!!
    満ち足りた生活に、文学は必要ない! それこそが、文学の不毛さでもあります。文学なんて、生きることのまえでは、ただの糞です(下品ですみません)。こんなものを、なにやら、宇宙の深淵とか人生の真実とか、そんなおおごとめかして語るときに、大事な大事な「私」がクローズアップされて、小説の「へそ」になるのです。私が大事なんて、それこそ滑稽のきわみ。私など、どれほどご大層なのか、私には、読者には、どうでもいいんだ。個人史を書きたいなら、文章教室でもいって、日経新聞の「私の履歴書」をお手本にしていればいい!
    NHKの番組は見ていませんが、じつは、某「文*思潮」のサイトで、同人誌評欄が更新されているのを読み、なんとも「私」の昔話に花を咲かせているばかりらしい同人誌小説の、これが同人誌小説の在り様だと言わんばかりのその評言に、悲しくなってしまっていたのでした。
    記憶と記録は、それなりに価値があるでしょう。
    でも、小説には創造を!

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  2. すみません、まえのコメント、名まえを入れ損ねたようです。私でした。

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  3. わあ、どなたかと思いましたがLydwine.さんで良かったです。
     「私」に足を掬われなくなって初めて小説が書けるようになるのだと思います。「私」を「私」として見ている間は客観的には書けませんから、「私」を「他者」を見るように見ることが出来るようになって、それで初めて私=他者=人間という、ひとつの存在として捉えることが出来るんでしょうね。
     昨夜のおふたりはそれぞれに重い父、重い母を抱えた「私」が創作の出発点になっていますから、先ずはそういう「私」を客観化する作業が書くことと重なるのは必然ではありますから、否定はいたしません。
     同人雑誌評に取り上げられるだけでその雑誌を購入、定期購読するひとたちが多いのでしょうか。わが誌は「**思潮」には送らないことにしています。

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