一陣の風が吹いたら、ボロボロ風化して、本でも紙でさえなくなってしまうような、表紙カバーも小口も天地も日焼けし酸性化した古い選書がある。
萩原朔太郎「宿命」(創元選書24)昭和16年3月24日四刷、定価壱圓四拾銭、古書価格400円
これはいったい、アフォリズム詩篇というべきか、散文詩篇というべきなのか?
鏡
鏡のうしろへ廻ってみても、「私」はそこにいないのですよ。お嬢さん!
そう。どこを探しても「私」などどこにもいないのだということを、あの時代、朔太郎はすでに知っていたのだった。
家
人が家の中に住んでいるのは、地上の悲しい風景である。
うーん、私はこれから書こうとして書けないかもしれない小説に、恥も外聞もなく「悲しい風景」という題名をつ付けようとしている(自分で自分を、こらぁ!)。
父と子供
あはれな子供が、夢の中ですすり泣いていた。
「皆が私を苛めるの。白痴(ばか)だって言ふの。」
子供は実際に痴呆であり、その上にも母が無かった。
「泣くな。お前は少しも白痴(ばか)じゃない。ただ、運の無い、不幸な気の毒な子供なのだ」
「不幸って何? お父さん。」
「過失のことを言ふのだ」
「過失って何?」
「人間が、考へなしにしたすべてのこと。たとへばそら、生まれたこと、生きていること、食っていること、結婚したこと、生殖したこと。何もかも、皆過失なのだ。」
「考へてしたら好かったの?」
「考へてしたって、やっぱり同じ過失なのさ。」
「ぢやあどうするの?」
「おれには解らん。エス様に聞いてごらん」
子供は日曜學校へ行き、讃美歌をおぼえてよく歌っていた。
「あら? 車が通るの。お父さん」
地平線の遠い向ふへ、浪のやうな山脈が続いていた。馬子に曳かれた一つの車が、遠く悲しく
、峠を越えて行くのであった。子供はそれを追ひ駆けて行った。そして荷車の後にすがって、遠く地平線の盡きる向ふへ、山脈を越へて行くのであった。
「待て! 何処へ行く。何処へ行く。おおい。」
私は聲を限りに呼び叫んだ。だが子供は、私の方を見向きもせずに、見知らぬ馬子と話をしながら、遠く、遠く、漂泊の旅に行く巡礼みたいに、峠を越えて行ってしまった。
(以下、略)
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