「銀座線」16号を送っていただいた。
早速読み始めた。目次順ではなく恣意的な読み方。
それというのも、目次を見て、この雑誌のひとたちの題名の付け方の上手なことに気づいた。若い頃に読んだ「ニューヨーカー短編集」みたい。
しばらくまじまじと見入ってしまった。
題名の牽引力の強い作品から読んでしまうという、相変わらずアマノジャッキー(何!!)な読み方、(ーー;) (何ともややこしい、厄介なやっちゃなあ)
どうもしかし、自分の書くものはとうてい年内に書き出せる雰囲気ではなく、この頃は書くことよりも読むことの方がずっと楽しい。
生きることとと書くこと、そのどちらもが前に進むために必要な右足と左足の連動した歩行運動であるとするならば、書くことと読むことも同様に前へ進むのに必要な右足と左足の連動運動であるから、どちらもおろそかにはできない。
そうは承知していても、やはり書くのは苦手だ。
本来、自分は文学とはもっとも遠い人間だと思っている。
今も、ソバだ家庭菜園だと、体を動かしていればご機嫌な単細胞にすぎない。にもかかわらず、もっとも不似合いな文学に足を入れてしまっている。文学をするには似つかわしくないほどの、繊細さとは対極の太くて本数少ないニューロン。
小学校の頃、何が嫌いって、B4の大きな原稿用紙を渡されて作文を宿題にされたこと。そして音楽の時間。
音楽の授業がある日はことさら意識的にそうしたのではなく、いつでも忘れ物をしていた。リコーダー、ハーモニカは必ず忘れて家まで持ちに帰らされた。運の悪いことに、わが家は小学校から歩いて数分の場所にあったので、忘れ物の意味はあまりなかった。いつも忘れ物を取りに帰らされる常連だった公平君は通学距離が遠くて、彼が忘れ物を持って学校に帰って来るのは授業が終わる時間だった。それがとても羨ましかった。
お、思いきり脱線してしまいました。
生きることと書くこと、読むことと書くこと、すべてが大事。
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