2010年12月18日土曜日

誰が書いたのか

 もしあなたがどうしてもそれを知りたいなら言うのだが、わたしは本当は生まれないほうがよかった。人生とはくたびれるものだと思う。勿論、今となっては手遅れで、わたしには人生をどうする力もない。しかし、わたしの心の底には、生まれたことを悔やむ気持ちがいつまでも残るだろう。


 こんなことを、誰が書いたのか。
 「調書」でルノード賞を得た二年後に出した短編集「発熱」(高山鉄男訳・新潮社)で、ル・クレジオが9つの短編の前に「手紙―序文」という2頁の文章を置いていて、その冒頭の言葉である。
 この時、かれはまだ弱冠25歳だったはず......。
 その終わりに近いところでさらにこんなことも書いている。

 詩とか長編とか中篇小説などというものは奇妙な遺物で、もはやだれも、あるいはほとんどだれも騙されはしない。詩だのレシ(物語)だのをなんのために作るのだろう。エクリチュール(文体)、もはや文体しか残っていない。言葉によって手探りし、綿密にかつふかぶかと探求し、描き、現実にしがみつき、現実を仮借なく痛めつける文体だけがある。


 うーむ。

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