お盆にもかかわらず、定例の赤提灯。町内の酒乱や嫌われ者など個性的人物についての観察が語られ、それらのひとたちの知られざる側面をおおいに知る。人間て面白い。
リアリズムの小説の胡散臭さに背を向けたはずが、気がついてみればフィクション(虚構)の胡散臭さにも直面してしまっていて、身動きが取れない。
こんな状況でなおも書かなければならないものがあるとしたら、それは何なのだろう? ストーリーとか構成とかモチーフとかモチベーションとか、そんなことはどうでもよくて、人間というこの奇妙な存在の吐息、荒い呼吸そのものが描写できればいいのではないか。
文章は作家の呼吸のようなもの、でもある。
つまらない小説を書くくらいなら、安いウィスキーなどを呷りトム・ウェイツの狼のうなり声のような無頼な歌を背中で聴きながら、無頼な安吾やブコウスキーの小説やエッセイや詩やを読んでいる方がずっとましなのかもしれない。
自分で書いて、自分で読んでもつまらなくない小説を、一度くらいは書いてみたいものだ。そうでなければ死ぬにも死にきれない。今、私が書こうとしているのは、多分、リアリズムもフィクショナリズムをも統合する書法を発見したいからだ、などというのは大袈裟というか、ただの法螺にすぎない。書かれたものだけがすべて。黙って書くべし。
それにしても私が書こうとしている主人公は共感より反感を買うのは必至。それが解っているからこそ筆が鈍る。
小説はその時代の典型としての人物を描くものだと言われる。読者をして、「この小説の主人公は私だ」と思わせるような、万人に理解共感される人物こそが「典型」なのだろうが、、私が書く人物の場合、どう見ても「典型」ではなく、誰にも通じない「特殊」に過ぎないような気がしてならない。
万人に理解共感されなくても、ほんの数人に読んでいただければ、それで十分なのだけど。
0 件のコメント:
コメントを投稿