2010年7月27日火曜日

elocutionのある文体

 おっちょこちょいなものだから、夕食時に、つい出さなくてもいい手を出し、その結果、右手中指の先を火傷した。縦5mm横1cmくらいの面積だが結構痛いので3時間ほど氷や凍った保冷剤を当て続け、それからアロエを貼ってようやく痛みが無くなった。
 それにしても場所が場所だけにパソコンのキーボードを打つのに不都合で困った。もう後がないのでパソコンを開かない訳にはいかないのだけど、痛みがあるうちは大きな保冷剤を押し付けているのでパソコンには触れられなかった。
 仕方なくヤケクソになり、ひっくり返ってiPodで音楽を聴いているうちに、罰当たりなことに眠ってしまった。

 目が覚めて、稲葉喜美子の歌の魅力を考えているうちにelocutionという言葉を思い出した。私は稲葉喜美子が歌う声のelocutionにぞっこん参ってしまったのだ。
 確か、この言葉を覚えたのは俳優の発声法としてのelocutionであったはずだが、これが何とも適切な日本語に置き換えるのがむずかしい。
英和辞書では
[名][U]演説[朗読]の調子;人前でのはっきりとした標準的な話し方;雄弁術, 演説法, 朗読法;誇張した話し方. el・o・cu・tion・ist[名]演説[朗読]法の教師;雄弁家. el・o・

 これじゃ何のことか。大辞泉では...
1.エロキューション【elocution】
朗読・演説、俳優のせりふなどの発声の技術。発声法。朗読法。

 この方がまだしも。
 elocutionというのはただの発声の技術や発声法ではなく、おそらく人間の性的な快楽原則にまで共振するような発声なのだ。声を聴いているだけで痺れてしまうような発声、もしくは声色。
 稲葉喜美子とか、Over the Rhineの女性ボーカルの声にそれを感じる。
 と、ここまで来たら、小説の文体にもelocutionが存在するという話までたどり着ける。私が現在の日本の小説家でいちばん文体のelocutionを感じるのは川上弘美。過去の人では、坂口安吾のエッセイにもelocutionを感じた。「ファルスについて」とか「ピエロ伝道者」とか小林秀雄を論じたエッセイとか、安吾のelocutionを感じないではいられなかった。これは理屈ではなく、感覚的に感じてしまうのである。同じ人間として、存在としての呼吸、息吹がそのまま声になり、文体になる。それがelocution。伊達にeloというスペルがあるのではない。

 結論。
 そういうelocutionのある文体で小説が書けたらなあ。

 それにしても、小説の人称に一人称を使うのは詐術のような気がしてならない。
 日本人はことに「私小説」という一人称小説の特殊にあまりに無防備というか、まったく疑わずに同化してしまう性癖があるので、もしも私が一人称を使うのだったらそれを逆手に取るという方法しかない。 




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 今年はバジルの種を播いてたくさん発芽したのだったが、植えたのは6本。それでもだいぶ枝葉が繁茂して来たので、そろそろ葉を摘まないと分枝しないし若芽が出ない。バジルの葉はジェノベーゼ(バジルソース)を作るほか無いだろうとネット上のレシピを検索。
 へえ? 材料を揃えてフードプロセッサーで混ぜるだけ?
 松の実とアンチョビを買って来なければ。 

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