2010年3月2日火曜日

文芸同人誌「ignea イグネア」

 デジタル文学館に作品を推薦していただいた縁でお知り合いになった、文芸同人tissoの光野公彦さんから、「ignea イグネア」という文芸同人誌2号と創刊号をお送りいただいた。

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 大阪文学学校で知り合った皆さんが2001年から研究会を持たれ、毎月作品を合評しつづけて2007年に創刊号を、そして今年、2010年の今日2号を発行。
 つまり、先に作品研究ありきで、雑誌はその結果。普通の同人誌は、今は提出された原稿を掲載しておき、発行後に合評ということが多いと思うが、「ignea イグネア」は違う。(松本市で発行されている「屋上」もかつては例会で作品を朗読させ、批評してから雑誌に掲載という手順だったようだが、今はそうしてはいないかもしれない)
 そのせいか、ぱらぱらと開いてみただけで目の当りが良く、安心して読めそうな作品ばかりが並んでいる。目の当りなんて非科学的かもしれないが、長年同人誌の作品を読んでいると見開き二頁の目の当りだけで何となく読める作品かそうでないか、判断できてしまうようになる。これも危ないことなのでそれだけを読み進める判断基準にはしていないが、少なくとも「ignea イグネア」掲載作の目の当りが好印象なのは確かである。
 さすがに毎月二作品をみっちり合評しているだけのことはあります。
 自分の同人誌の作品評を書いて、できるだけ早く読み始めたい。

 ちなみに「ignea イグネア」は、A5版がほとんどの同人誌の中、B6版一段組みなので非常にインパクトがある。創刊号などは本文が320頁もあるので、ここにしゃれたカバーなどかければソフトカバーの共同作品集と言った趣。
 そういえば光野さんにわが誌をお送りするのを忘れていた。 終刊号と自分の作品がある最近号くらいはお送りしないと。

病蠢動

100228rhubarbseedling.jpg 忙しくなる前にと先行播種しておいたRhubarbの種、3種類だが、3種それぞれ発芽の仕方が異なる。いちばん発芽が一斉に揃っているのは写真中央、私が目につけた種類で現地のきちんとした種苗会社の種。根元から首元まで真紅な株が発現する確率がいちばん高い品種。次が写真右側のUTで有機農業をしている個人農場主から送ってもらったもの。もっとも発芽が遅れているのは写真左側、Rhubarbの本場であるORの種苗会社から購入したものだが、あまりに発芽状況が良くないので、さては昨年の種ではなく一昨年の古種を送られたかという疑いさえ持ってしまった。
 今日、時間が空いた隙にまた2種類播いた。写真中央の発芽そろいの良い種の2回目播種と、イギリスから取り寄せたVictoriaを播種。しかしこのVictoria種、海外のネットオークションを通して買ったせいか、種がだいぶ小さめだし、自宅の裏庭の、株分けせずに年数を経て老化した株からしろうとが採種したような感じで実に不揃い。しかも、ジッパー付きのポリ袋に油性ペンで手書きでVictoria 100seeds と書かれているくらいだから、ほとんど期待できない。そのオークションンの時の写真が根から首元まであまりに真っ赤だったので試しに購入してみただけなのだった。写真の赤いのはほとんど信用できない。一昨年、イタリアの種を購入して播いてみたが、種袋の写真は真っ赤だったが、播種して植えたなかで赤い茎は一本も見つからなかった。
 Victoriaは基本中の基本種であるから播種観察してみるのはいいけれど、やはりきちんとした種苗会社から購入すべきであった。
 これでこれまでに1550粒以上を播き、これで期待している種の3回目播種用の350粒ほどを残すのみとなった。トータルで1900粒くらい。ほんとうはもう300粒ほどあったが、ついT中さんにあげてしまったのだけど、下手な鉄砲も数撃ちゃ中るみたいな妙な確率論。実は宝くじと同じでたくさん買えば当るというものでもなく、一枚しか買わなくても(1粒しか播かなくても)当る時には当るし、当らない時にはどんなに買っても当らない。
 突然変異に遭遇するのは多分そういうことで、たくさん播けばいいというものでもない。けれど播いてしまうのです。
 昨夜、頂戴もののザボンを食べていたらその種の多さ。私は種を見ていると播きたくなる病気なのだけど、その時に種を確保しておかなかったので妻に、皮といっしょに捨てられてしまったらしい(泣)。
 そういえば、先週、ホームセンターでつい普通のルッコラとバジルの種を買ってしまった。
  
  
わはは
   

 
 

2010年3月1日月曜日

近くて遠い、遠くて近い距離

 行き詰まると、アリストテレスの「詩学」を開く。
 それも昭和42年7月10日発行の星三つの岩波文庫である。二十歳の歳に中野駅近くの書店で購入したもので、レジで5000円札を出して購入し、つり銭を確認せずにジーンズのポケットに突っ込んで店を出た。そしてアパートに帰ってポケットからつり銭を出して驚いた。5000円で150円の文庫本を買ったのだから4850円のはずが、9850円あったのだった。5000円しか持って出なかったはずなのに、何と5000円も増えていた。つまりレジの女の子は5000円札を10000円札と間違えてお釣りを出したのだった。その頃はまだまじめだった私は、あわててまた電車に乗って隣駅まで行き、書店のレジで訳を説明し、5000円を返却した。つり銭を間違えた女の子はもうレジにはいなくて、別の女の子がレジにいて、呼ばれて来た男性の店員がもう一度話を聞き、5000円を受け取った。
 日曜日の昼近くにアパートのドアをノックする音がして、飲み友達が来たと思ってドアを開けると見知らぬ女の子が立っていた。岸田劉生の「麗子」みたいな髪と顔をした女のだった。
「わたし、〇〇書店の△△と申します。先日はわたしが間違えたお釣りをわざわざ返しに来ていただいて、ほんとうにありがとうございました。」
 そういって差し出された菓子折りを私は受け取ってしまい、再度の感謝の言葉とともにドアは閉じられてしまった。それでお話は終わりなのだが、一ヶ月後に私は彼女と著名は鎌倉、東慶寺の墓地で作家や文化人の墓碑を見て回っていた。警戒心のまったくない子で、その滑らかな腕で私の腕にからみついてきたが、その後は会っていない。
               これではまるで唾棄すべき私小説、風......(ーー;) 


 その「詩学」の120頁。

 次に、詩人が描いたものは事実と反すると攻撃されたならば、多分『否、それはそうでなくてはならないのだ』と、丁度ソフォクレスの弁明のやうに主張し得るであらう。ソフォクレスは『余は人間をそうあるべき如くに描くのに反して、エウリピデスは人間をありのままに描く』と言った。もしも詩人の描いたものが、事実も、また理想も捉へてゐないならば、彼は「世間にさう伝はる」と答えたらよい。
            

            アリストテレス「詩学」松浦嘉一訳・岩波文庫・昭和42年・第13刷


 人間をそうあるべき如くに描く作家と、ありのままに描く作家。
 赦す作家と責める作家にパラレル。
 「照葉樹」の水木さんと垂水さんとパラレル。
 その近くて遠い距離。遠くて近い距離。

 

2010年2月28日日曜日

忘れる可能性100%

 Eden Brent のアルバム「 Mississippi Number One」 を2回聴き、その後は相変わらず、執拗にランボーのL'etoile a pleure roseに曲がつけられたものを聴いている。面倒なので音声ファイル編集ソフト(もちろんフリーソフト)で5回繰り返すようにコピペを繰り返した特別編集版を作り、それを再生している。どうしてこんなに気に入ってしまったんだろう。
 これ、告別式で流してもらうのもいいなとか思いましたが、葬儀告別式はやらないように妻やこどもたちに言ってあります、(^_^;)

 聴いているうちに、いきなりイメージ。
 警察の留置場、取調室。27歳の女性。iPod。女性の十代の頃のヌード写真。女性の父親殺しの容疑に対する刑事と主人公との意識のズレ。(と書くとまるでエンタテインメントじゃない?)
 ひとばん眠ると忘れる可能性100%なので、ここに臨時にメモ。メモ帳に転記したら消します。
 題名はもちろん、「薔薇色の涙」。

2010年2月27日土曜日

幻視・幻聴・夢想・妄想

 電源のONが不調だった原因がバッテリーにあったのかどうか判断はつかないが、バッテリーを交換後、ノートパソコンの電源が入らないという現象は、一応、鳴りを潜めた。まだやや電源のタッチが重い感じはするが、電源が入ればOKとしておこう。
 新しいバッテリーが届く前にも、バッテリーを外し、AC電源のコンセントも抜いておいて電源ボタンを数回カチャカチャ押しておき、それからAC電源をコンセントに差して電源ボタンを押すと電源が入ることが判った。要するにバッテリーにもAC電源にもつながれていない状態で電源ボタンをカチャカチャすることで電源周辺の帯電が放電され、それで電源が入るようになるのか、とか科学的根拠のない想像をしていたが、これでしばらくはパソコンの買い替えはしなくてもよさそう。

 いろいろな因縁があり、管理しているウェブのコンテンツの一部を削除しなければならなくなったので、これを機会にサイトデザインを一新したいと思って無料テンプレートなどを見て回っているが、なかなか気に入ったテンプレートは見つからない。やはり自前で作成すべきか。

 この頃、ひとりの女性の姿や声が見えたり聴こえたりしている。彼女はすでに名前を所有している。なんて書いたら、それは幻視・幻聴・妄想・夢想だよと言われそう。
 もう少し彼女にdetailがついてくれば書き出せるのだろうけど、そのdetail自体が問題で、うんざりして書き止んでしまうことが多い。その繰り返し。
 ル・クレジオの女性主人公に近いような、そうじゃないような。
 残雪の「汚水の上の石鹸の泡」の書き出しの驚愕の一行を強く意識している。
 こんな風に書き出せたら、どんなにしあわせだろう。

 母が溶けて、たらい一杯分の石鹸水になってしまった。




2010年2月25日木曜日

今まで使わなかった機能

 昨夜、夕食後に友人宅へ出かけている間にある方から私に電話があり、留守だからまたかけ直せばいいものを、事情のよく判らない家人に向かって、ややこしい話をしたという。規約だの承認だの、そんなことは家人に呑み込めるはずもないのに、どういう神経?
 そういえば、わが家の電話には録音機能があったことを思い出し、取扱説明書を開いてみると、SDメモリカードを入れてあれば通話中の会話を最大60分まで録音できるではありませんか。SDカードはファックス受信のために既に入れてあるので、すぐにも使えます。
 昼間に老人が留守番をしていることもあり、振り込め詐欺とか怪しい電話への対策としてもこの録音機能は威力を発揮しそうなので、誰にも判りやすいように録音の仕方を印刷し、電話機に貼り付けた。
 今回のように、本人がいないのにややこしい電話があったときは、本人帰宅後に会話の一部始終を聞かせることができるし、便利である。この機能、家族全員が使えるようにしておいた方がいいだろう。

 一昨日注文したノートパソコンのバッテリーが届いた。早速、説明書に書かれている通り、5回の充電と放電を繰り返す。そんな面倒なと思ったら、バッテリーのキャパシティを最大限に引き出すための作業なのだという。
 それにしても新品なのだから今にも死にそうだった古いバッテリーと違って、充電も放電も時間がかかる。
 1回目、充電に2時間45分、放電に4時間!! さすがに新品だ。
 これでは一日一回の充電放電だってタイヘンである。
 放電し終わったら電源が切れるので、就寝時に放電を開始して寝ている間にさせるしかない。5回はともかく3回くらいは充電と放電を繰り返さないと。

 さて、そろそろ自分の同人誌の感想を書かなければ。編集時に読んではいるが、感想を書くとなると、もう一度読み直さなければ書けない。

 といいながら、ビル・エヴァンスの例の1980年のヴィレッジ・ヴァンガード最後の演奏をおさめた58曲入りのCDの、続きを聴こう。
 聴きながら録音するのが、結構油断できず、タイヘンなのだけど。

2010年2月24日水曜日

一種の荒行

 残雪研究第二号を読むのを一時中断して、最近送っていただいた同人誌をようやく通読した。これから感想を書こうと思うが、どうもこれが書きにくいことこの上ない。
 小説の中で人が生きるのも死ぬのも虚構ではあるが、現にその小説を読んでいる読者にとっては虚構内現実という現実であり、そこに描かれた事故としての死が、旧約的、古代ギリシア的な、運悪く落雷に撃たれたみたいな死や、たまたま犬っころが車に轢かれたみたいな死であると、非常にやりきれない。
 たまたま犬っころが車に轢かれたみたいな死が現代にないわけではないし、死者に死の意味がなく、生者に生の意味が見えない状況を提示した作者の焦点距離の深さには感心する。
 そういう意味のない死の上に残されて生きている者たちの小説が展開されているのだが、このあたりはネガティブすぎて読むのがきつかった。結末に至って生が意味あるものに見えて来て、生者は生の方に向かって歩みだすのが判るのだけど、それにしても、この小説のそもそもの出発点にある死、これは読者には否定しようもない。こういう視点で小説を書く物書きは少ないし、この作品自体が一種の荒行であることは事実なので誉めたいのだけど、さて、どうやって?
 単なる読者として書くのなら簡単だが、一応小説を書こうとする者は読者でありつつ書き手でもあるので簡単には書けない。書くことがみな自分に跳ね返ってくるので厄介なのです。
 少し時間を置かないと書けないような、時間を置くとますます書けなくなるような。
��結局、書いて「小説・書くひと=読むひと・ネット」の方にアップしました)

 今日はパソコンのバッテリーを抜いたまま。少し時間がかかっても起動しないことはなく、拍子抜けしたが、一日考えた末にネットでバッテリーを注文した。


 お口直しです↓ 。 このブログのタイトルバックに使わせていただいているトニ・フリッセルの写真がジャケットに使われている、ビル・エヴァンスのアルバム、「Undercurrent 」に収録されている曲です。 Dream Gypsyと Skating in Central Park
 

 

2010年2月23日火曜日

アナログなメモの力

 昼間は異常なく会計ソフトにデータを入力していたのに、夜になってまたパソコンの電源が入らなくなった。いつもだとACアダプタを外し、バッテリーも外してしばらく放置し、放電してやれば電源が入るようになったのに、今夜はずっとダメだった。これはいよいよ寿命かと最新のデータをバックアップせねばとあせって同じことを繰り返していたら、ふっと電源が入った。
 そこで、先ず、My Document全体を外付けHDDにコピーし、更に、メールソフトのアドレスとブラウザのお気に入りをエクスポート。会計ソフトや販売管理ソフトのバックアップデータも外付けHDDとフラッシュメモリに二重に確保。
 これで、パソコンにいつご臨終になられてもいい準備は出来た。様々なIDやパスワードは以前懲りたことがあって、A6版のメモ帳に手書きで記録してある。
 いい加減で新しいパソコンに買い換えた方がいいのかもしれないが、どこまで頑張れるか、妙なところで半分楽しみながらも意地になっている。
 ほかに不都合はなく、バッテリーを新品に換えれば解消するトラブルである可能性が大きい。ただ、万一バッテリーを新品に交換したにもかかわらず電源が入りにくいというトラブルが解消しなかったらと考え、戸惑っているだけ。
 パソコンをシャット・ダウンせず、スタンバイさせて電源は入れ放しという方法もあるが、半年、一年電源を入れっ放しというのは現実的ではない。
 今夜はバッテリーを抜いたままにして様子をみよう。明日になってバッテリーを抜いた状態で電源が入ったら、新しいバッテリーを購入してみよう。

 二段組見開き2頁のエッセイをストック。ちょっと窮屈なのでもう少し字数が欲しいが、4頁となると間延びしそうなので、いったんこれで終了としておく。
 以前はいろいろメモをしていたのだが、この頃はそのメモをすっかり取らなくなっている。それを反省して、100円ショップので購入したA6版メモ帳が1冊余っていたので、それを使うことにした。ID、パスワードなどもそうだが、アナログなメモの力、実はすごいのである。かつて書いた小説はみな、メモに書きつけた単語や数行から生まれている。


2010年2月22日月曜日

実にゆるい日曜日

 申告の時期だが慌てても仕方ない。今日は日曜なのでのんびりネットで一眼レフカメラのお勉強をしようと思っていたのだが、朝食時に母親に友達の家に蕎麦を打ってくれと頼まれたので8:30より道具を出して作業開始。40分ほどで切り終わってパック詰めしてポリ袋に密封したものを母親に渡した。それであっさり道具を片付けるのももったいないような気がして、もう一回打つことにした。妻の知りあいの尊敬する詩人に送ってあげたいのだけどまだ自信がないので、結局自分の分とM君の分で600g打ち、半分をM君に届けた。コーヒーをいただきながら小一時間ほど雑談。彼のパソコンも瀕死の模様。

 夜はまた例の海外の試聴サイトにでかけて行って、アーニー・ワッツの「Sanctuary」というアルバムの8曲を聴き、それからまたビル・エヴァンスのヴィレッジ・バンガードでの1980年の最後の録音、58曲入りのアルバムを聴こうとしたが、曲数が多すぎてどこまで聴いたか覚えていないので、また最初から聴き始めた。毎晩10曲ずつとか決めて聴く方がよさそう。それにしてもビル・エヴァンスのアルバムの数の多さ。
Albums 134
Titres 730
Vidéos 30
と表示されている。134枚。無論再リリースとか重複しているアルバムもあるのだが、それにしてもすごい。

100220ohinasama.jpg
 これは妻が友人から贈られたお菓子付きの雛人形を喜んで写真を撮ってくれと頼まれたもの。ありゃ、お内裏様の顔が日陰になってしまいました。
 なんとなく緩い日曜日。

 

2010年2月21日日曜日

男のひとの写真

 残雪研究第二号「現代主義文学における審美活動」を一読。

 創造しているとき、想像力はまるで意識ある夢遊病者のようです。


あなたが言うように、想像力とは主体と客体を疎通させる力です。


 残雪の発言のこのあたりは圧倒的に納得できる言葉だが、この対話の全体は、どうも三回くらい繰り返し読まないと把握できない。相当頭が悪くなった。

 昨日も、今日も、同人誌掲載作のへの感想や、終刊についてのメール、手紙を複数ずついただいている。
 どうも私が考えていたよりもショックを受けられた方がおいでになり、大反省。
 ある同人誌の、何となく兄貴のような感じでおつきあいさせていただいているAさんからも封書をいただいた。開封したら終刊のショックが記されていて、二枚の写真が同封されていた。一枚は近くの湖の湖面に野鳥が戯れている写真。もう一枚は湖面を背景に写真の左側にAさんご自身が写っている写真で、Aさん自身も野鳥になってしまったみたいな、邪念のないいい表情。
 男のひとの写真をいただいてうれしくなったなんて、生まれて初めてのことだが、ほんとうにうれしくなってしまった。この写真、大切にしよう。
 Aさんはパソコンもネットもしていないはずなので、手書きの手紙でお礼を書くことにしたが、あまりに久しぶりの万年筆だったのでインクが乾いて使い物にならない。しかたなく万年筆を解体してお湯に漬け、しばらく放置して乾いたインクの掃除をし、それから新しいインクカートリッジをつめてAさんへの返信を書いた。

反省:今後は手書きの手紙も書こう。いただいたメール、手紙には必ず返信しよう。それから送っていただいた同人誌の作品は必ず読んで感想を書こう。小説も発行ごとにきちんと書いて、どんなに気に入らなくても載せよう。 

 

2010年2月20日土曜日

浮遊

残雪研究第二号、小説「伝説の中の宝」(近藤直子訳)と、論文「残雪―宙吊りの場」(近藤直子)を読了。
 「伝説の中の宝」は、カフカ的な不条理というより、いかに人間が訳のわからない不合理によって動かされているかということを小説という言語表現で現前化している。見えるもの、判っていることだけを書く小説もあるが、残雪の場合、見えないもの、判っていないものを書こうとするので、こういうありえないことをあるように書くというややこしい方法になる。
 それから、「残雪―宙吊りの場」。
 そういえば、私自身がこのブログのタイトルバックに現在使用しているトニ・フリッセルの写真や、以前使用していた画像も、同人誌の終刊号に表紙に使った画像も、皆、女性が浮遊している画像で、無論これは偶然ではなく意識的なので、精神分析すればいったい何が出てくるのだろう。それにしてもどうしてこんなに浮遊している女性が好きなのか、われながら相当に怪しい。
 ひきつづいて小説「そろばん」を読むか、対談「現代主義文学における審美活動」という、残雪と暁芒の電子メールを用いた対話を読むか。どうも、後者が先か。

 今日は天候が良かったので、仕事の合間に道楽用ビニールハウス内に入り、Rhubarbの種3種類を300粒づつ播種。この中から3本、気に入った形質のものを発見できれば良い。
 育種学の本を検索してみたが、新本は結構高い。とりあえず、入門書のようなものを古書検索してみよう。

 



2010年2月19日金曜日

それだけしゃべれれば大丈夫

 午後三時過ぎ、時間が出来たのでTさん宅へソバ粉を届ける。奥さんはデイ・サーヴィスに行く日ではないらしく在宅。Tさんが淹れてくれたお茶をいただきながら雑談していると、こたつにもぐりこんでいては時々むっくり起き上がり、「おばさん、何の歌が好き?」と私に反復して同じことを訊く。私は男であるはずなのでおばさんではなくおじさんであるはずなのだけど、この場においてはおじさんであってもおばさんであっても差しつかえはないので、意に介さず「美空ひばりの愛燦燦」と答えると、安心したようにまたこたつにもぐりこむ。Tさんの家にいる間、おそらくこれが4、50回くらいは繰り返される。
 Tさんとしゃべっていると、たまに「それだけしゃべれれば大丈夫だ」と突っ込まれる。
「ははは、女房にはしゃべり過ぎって言われてます」と答える。すると奥さんはうれしそうに笑う。
 男のTさんにお茶の支度をさせるのは気の毒なので寄らないようにしようと思うのだが、つい上がりこんでしゃべってしまう。

 残雪研究2号、掲載されている小説3作のうち、冒頭の「伝説の中の宝」を読み始める。
 主人公の田じいさんとその奥さんであるばあさんが実に面白い。私のように現実的には何のためにもならないことに熱中してしまうタイプの人間はまさに田じいさんそのもので、まるで自分を見ているようなもの。
 現実的、実利的にしか生きないひとには理解出来ないだろう。現実に自己の生の価値を見いだせる人には小説という名の虚構装置などは必要ないのだし。(相変わらずの屁理屈、すみません)

2010年2月18日木曜日

うらめしや

 夕方、早めに帰宅できたので、だいぶ溜まってしまったそば殻と野菜くずの生ゴミを持って、久しぶりに畑へ。

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100217oyamabokuchi.jpg この時期の畑は凍っていて何も出来ないし、収穫できるものもなし、つまらないものです。
 そば殻を撒き、野菜くずは畑の隅に掘った穴にどどっと入れておしまい。思いついて、昨年初めて実が成った柿の木と玉ねぎに肥料を施す。
 振り向けば刈らずに放置したままのオヤマボクチ。何だかうらめしやといった風情。
 母親曰く「オヤマボクチ蕎麦なんかおいしくないんだから、畑のオヤマボクチは皆抜いてしまって、その分、たとえ五通りでもソバを播いた方がいい」
 なるほど、ごもっとも。
 オヤマボクチ栽培はやめるべきか、な。




 同人誌の終刊について、今日、2誌の代表の方からハガキをいただいた。ありがとうございます。

2010年2月17日水曜日

何て不思議な小説

 あわただしく終刊号を発送してしまったら、台風の目のなかにいるのかと思うくらいの静寂。
 これから先のことを考えるのには好都合。

 先週末に申し込みした「残雪研究第二号」が、今日、もう配達された。小説3編のほか、評論、対談、さらに論文2編で、本文180頁。
 実は、二男が現在住んでいる、数十年前に建築されたという古いマンションから歩いて行ける場所に研究会がある。いつか例会を拝聴できたらいいのだけど。
 私が最初に購入したのは「カッコウが鳴くあの一瞬」。
 立ち読みして、何て不思議な小説を書くんだろうと思い、そのままレジへ行った。新刊で1991年6月発行だから、あれからもう19年。