2011年1月22日土曜日

希望の火

 ウォールナットオイル、到着。
 早速、麺棒に塗ってみる。かなり滑りが良くなりそう。
 自作した駒板の下面にも塗ってみた。
 また、蕎麦を打ってみたくなった。
 一度、ねずみ大根を使って越前の「おろし蕎麦」の真似してみたいし。日曜日に家人が出かけるらしいので、M君を呼んでいっしょに食べようかな。

 もう一冊、蕎麦がらみの本を検索した。新本もあるが12600円。古書で結構と思って探したが、本職の蕎麦打ち職人のバイブルのような本なので、古本屋に売り払うような不心得者はいないようで、一冊しかヒットせず。
 その一冊、値段は安いがかなり状態が悪い。悪いが活字が読めない訳でもなさそうなので思い切ってオーダー。




 書き出していた小説、ほぼ難破。
 私のような極めつけのネガティブは小説など書かない方がいいのかもしれない。
 誰もが希望の火を見たくて小説を読むのであって、絶望の火など目にしたくもないに決まっている。
 小説が希望という光を提示するものであると規定するならば、私などが小説を書く余地などまったく無いことになってしまう。








 そうか、ベッシー・スミスとジャニス・ジョプリンの「Careless Love Blues 」を聴き比べて初めて、苦手だったジャニス・ジョプリンやビリー・ホリディが解ったような気がする。



2 件のコメント:

  1. 小説が希望の予兆をもって終わらねばならないなんて、そんなことはないと思います。
    小説は人間の生き死にの上に、あるものとおもいます。
    生きて、必ず死をむかえる人間の真実の心を描き出す物であって、読者の「救い」を意識して希望や光を呈示してあげるなんて、それは、読者が読み取れないから、サービスしてあげよう、という余計な気持ちなのでは。
    人間としてどのように主人公の生き方をを受け入れてあげるか。
    読者が、この世ではない空間、魂の静かに消える空間に、その人の生きた苦しさや喜んだことを、どのように祝福して解放してあげられるか。
    それは読者が、この世のすべての魂を受け入れるほどの、大きな宇宙
    観を持たないと無理なのでは。
    不幸な小説も明るい小説も同じで、読み手がどこまで人間という複雑きわまる生き物を受け入れられ理解できるかで、読後感は大きく変わってくるでしょう。
    惨めに孤独に死んだって、それは惨めであるとはかぎらない。死の風景は全部違います。孤独な惨めな死は悪ではありません。
    それも人間の姿です。
    最近、思うことです。サービスなどしなくても、読み取る力のある人を目指して書きましょう。
    死が目の前に来ていない人たちには、ぴんと来ないと思いますが。

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  2. Nさん、コメントありがとうござます。Nさんがおっしゃること、確かにそうなんです。
     ただ、書く時は、書く自分と読む自分の闘争みたいなところがあって、読む自分が強いんです。
    「おまえ、そんなの書いていていいのか」とかいつもうるさくて困っています。
     それに負けないくらい書く自分を強くしなくてはいけないんです。
     ありがとうございました。
     

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