「小倉まで」ひわきゆりこ(胡壷9号・福岡市)
小倉に住む叔母に久しぶりに招かれ、訪ねてゆくという5頁ちょっとの掌編だが、何よりも先ず、二ヶ所に描かれたふたつの背中が印象的だった。
ひとつめの背中は、小倉駅を出ようとして遭遇した、両腕を振り回し奇声を発して駆けてゆく青年のデイパックを背負った背中である。彼は南口から北口へ一気に走りぬけた。彼に何があったのかは分からないが、主人公である「私」は彼の前に立って大きく両腕を広げ、制止するというイメージを抱く。なぜ、「私」がそういうイメージを抱いたのかは分からない。
もうひとつの背中は、せっかく訪ねて行ったのに食欲と愚痴ばかりが旺盛で自分が不幸なのをいまだにひとのせいにする叔母が、自分の話が気に入らないのなら帰れと言って背を向けてしまう、その頑なな背中である。
6頁下段、9行目。
......手だけが別の生き物のように籠の菓子袋をまさぐっている。それが必死に何かを求めているようで気味が悪い。
もはや叔母は得体の知れない生き物になってしまったかのようだ。小倉駅の青年といい、叔母といい、コミュニケーションが成立しない場所に立って背中を見せている。
このふたりの背中は、人間が人間でなくなってしまう一瞬を現わしている。「私」の視界に二ヶ所、ぽっかり穴があいている。それをさりげなく描写している。
帰路、再び小倉駅で、変わった様子もなくショーウィンドウに見入っているデイパックが目に飛び込んできた。もう彼は普通の人に戻ってしまったのだが、「私」は彼の衝動が吹き出して自分に向けられるのではないかと思う。
短いが、読んでいてふたりの背中の向こう側の大きな暗闇を感じないではいられない重さがあった。
「崖くずれ」納富泰子(胡壷9号・福岡市)
何とも感想の書きにくい小説である。
とはいえ悪い作品ではない。
が、読んでいてどこか居心地が悪い。
その理由は、あるいはこの作品が二つの顔を持つ小説であるからかもしれないと思う。
この作品の基底には、過労死させた部下の妻と浮気してしまった夫の失踪という、何ともよくありそうな、コテコテな人間的現実が書かれている。
浮気が発覚すれば、当然、夫婦の間に波風が立ち、そのあげくに離婚するか元の鞘に納まるかどちらかだが、嫉妬する妻の無言の嫌がらせが効いたのか、この小説では夫が失踪する。
どこを探しても見つからないし、夫の浮気の相手であるアザミに似た女も行方は知らない。夫が生きているのか、死んでいるのかさえ知れない。
残された妻は長年患っている膝関節症に加えて、転倒して骨折し、車椅子生活になり、ヘルパーの世話になりながら暮らしている身の上である。
その彼女が、夫の残した高野喜久雄詩集のなかの「崖くずれ」という短い詩に着目する。
(そういえば、いつだったか、妻が高野喜久雄詩集を探してくれというのでネットで検索して注文したのを思い出し、読みたいので貸してと言ったのだが、どこにあるか判らないというつれない返事、(ーー;) ...... ) その詩から、「山を囲む、青黒く透明な池だ」で始まる書き出しの11行が生まれ、やがてこの作品の終わりに至って、ひとつの山や池がまさに実体を以って出現する。彼女の意識はすでにマンションにはあらず、山にある。
これをただの認知症を患った老女の幻想、妄想と読むことも出来なくはないが、22頁上段8行目から23頁下段5行目の終わりに至るまでの幻想的でありつつもリアルな描写、これを認知症を患った老女の幻想、妄想と読んでしまっていいのだろうか?
......崖くずれの音は、頑なな山の心が、揺れ動いて開く音なのだ......。崖くずれは切ない。自分の一部を失いながら、何かを求めている。
と書かれているが、認知症を患った老女の幻想や妄想にしてはあまりに澄明すぎはしないか。
思わず私は、宮澤賢治が晩年に死にそうになった時のことを書いた詩を思い出してしまった。
あの詩もまた、あまりに澄明すぎて、切なく悲しく、そして美しい。
夫の浮気に嫉妬しないではいられなかった妻が、これほどに澄明な心境に至ることが出来る。それも認知症スレスレにである。
「崖くずれ」。読むのも、感想を書くのも、実に難しい小説でした。
この小説が二つの顔を持つ小説と言ったのは、あるいは人間という存在がふたつ、三つ、あるいはそれ以上の顔を所有するポリフォニックな存在であるということを証明してくれているからなのかもしれません。
有り難うございました。
返信削除私も、今、自分の小説に関して考えを新たにする必要を感じています。
いろいろな意味で、いったん自分を更地にしてしまったほうが良いと考えて、このほど、9年間所属したKOKOからも脱けさせていただくことになりました。
体力気力の衰えもあり、52才から小説というものを書き始めて、ただただ夢中で書いてきたのですが、ここらでいったん立ち止まってみたい。
樋脇さんにはご迷惑をおかけしました。ひとえに私のわがままです。
これからどうするかは分かりません。また書き始めるかもわかりません。
今は何もわかりません。
「出現」創刊号中の作品「星は薔薇色の涙を流さない」
返信削除いただいてすぐに読みました。
作品が上下段に分かれていることから、同時進行で物語が進行して行く
ものか〜と思いましたが、そうではなく、下段は作者の日記になっているのですね。小島さんのブログをいつも拝見しておりますので
日々の生活から抜粋されたものとお見受け致しました。
上段の作品は、作中、あまりにも、作者の感性や知性がきらびやかに
ちりばめてあり、作者は何を言おうとしているのだろう..と分かりにくい部分も確かにありました。しかし、私が決して持ち得ない世界を、作者が持っておられることへの羨望は隠せません〜。勉強しました..。
kojimaさん、ご丁寧な感想をありがとうございます。拙作の青年と叔母は私の中ではひとつなのですが、つながりが判らないという意見が多かったです。
返信削除納富さん、ゆっくりのんびり休養してください。ものすごい勢いで書き続けてきたんですものね。
花巻、遠野、仙台とまわり、宮沢賢治のことをずっと考えていました。どうして農民のためにあそこまでやったんでしょう。戦後のサークル運動と似た部分がありますが、こちらは思想がもとになっている。自然科学にものめり込んだ宮沢賢治は魅力的です。
仙台で「みそなんばん」なるもの発見。牛タンに付けるものですが、激辛唐辛子の味噌漬けです。kojimaさんお手製の物とまったく同じでした。とても美味しくって、買いだめしてきました。
納富さん
返信削除大ショックです。
ちょっと休養と勝手に解釈させていただいて、ショックを和らげておくことにします。そうじゃないとかなり深刻に凹んでしまいそうなので。
mizukiさん
返信削除あの、小説とも思えない、読みにくく分かりにくい作品を読んでいただき、ありがとうございます。こういう読みにくいものは発表しない方がよかったと反省しております。もう少し気楽に書けばいいのでしょうが、どうもますます構えて書くようになり、いけません。
ひわきさん
返信削除>拙作の青年と叔母は私の中ではひとつなのですが……
そうですよね。私もふたりの背中が強烈にイメージに残りましたので、それを聞いて安心しました。
花巻、遠野、いいですね。私も以前岩手を旅行したことがあるんですが、もっと北の方でした。
やはり激辛唐辛子の味噌漬、ありましたか、(^_^) 。
わが家も今年は3種類の唐辛子が暑かったせいか大豊作で、味噌漬けではなく、刻んで炒めて味噌、砂糖で味を調整した「なんばん味噌」を三回ほど製造しました。それを真空パック用の袋に入れてシーラーで封をし、冷凍庫に入れて保存しておきます。辛いのが好きなひとに上げると、けっこう喜ばれます。
この場をお借りして言うのも申し訳ないですが、納富さんには「とにかく休養してください」の気持ちです。KOKOの枠組みはなくなりましたが、個人と個人の関係は以前と変わりなく続いてゆきます。納富さん、これからもどうぞよろしく。
返信削除小島さんの地方は唐辛子が豊かですね。こちらでフクミミと思われる唐辛子を発見。天ぷらにしたら美味しくて、「かっらーい!」といいながら食べてます。
ひわきさん、「福耳」のてんぷらもいいですね。
返信削除今年は4本植えただけなんですが、実が付きすぎて困りました。来年は1~2本にしておきます。