2010年9月20日月曜日

叙情を排さない

 若い頃に「叙情を排す」という題名のエッセイに感銘した記憶があるのだけど、誰が書いたか失念して思い出せないのでGoogleで検索した。
 そしたら題名が違っていて「第二芸術論」だった。そうか、偏愛してやまない安吾のエッセイだったのだ。数十年も経過すれば、それさえも忘れてしまうのか。

 一部引用する。
 主知派だの抒情派だのと窮屈なことは言ふに及ばぬ。私小説もフィクションも、何でもいゝではないか。私は私小説しか書かない私小説作家だの、私は抒情を排す主知的詩人だのと、人間はそんな狭いものではなく、知性感性、私情に就ても語りたければ物語も嘘もつきたい、人間同様、芸術は元々量見の狭いものではない。何々主義などゝいふものによつて限定さるべき性質のものではないのである。


 人間という存在はどこかどの動物にも真似できない理知的な存在でありながら、もう一方でセンシティブ(感覚的)な存在でもあるので、どこまでもセンシティブ(感覚的)にならざるを得ない。
 ここでいう理知的は、前世紀の哲学者であるニーチェの言を借りれば「アポロ的明晰」のことであり、センシティブ(感覚的)とは反対にディオニュソス的陶酔ということになる。芸術で言えば音楽や舞踏はセンシティブ(感覚的)でディオニュソス的だが、哲学や文学、ことに小説が含まれる言語表現や言語芸術はアポロ的明晰が要求される。
 詩の中でも、抒情詩と呼ばれる分野はセンシティブ(感覚的)でディオニュソス的だし、叙事的な詩は「アポロ的明晰」に裏打ちされている。

 叙情だけの世界は鬱陶しい。だからといって叙事だけでは味気なく砂を噛む。
 多分、小説はその双方を必要としている。叙情的にも豊かで叙事的にも豊か、それが小説、文学というものだろう。



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