2007年4月28日土曜日

昔の、反私小説的私

 印刷所にフォントを送ったが、着いたとも着かないとも返信がないのはおそらく仕事に着手して夢中なのであろうか? ひょっとすると5月2日発送、3日配達のスケジュールで突入しているのでは? そんなに急がないって書いたんですが、3,4,5,6の連休を休みにしたいのでそうしているのでしょうか、嗚呼。
 それならこちらも宛名ラベルでも印刷して封筒に貼り、到着したら封入・糊付け・メール便発送の体勢を整えておきましょう。「木曜日」、「照葉樹」さんより早くなってしまったらどうしましょう。第一、印刷代金が代引きなので用意しておかなくてはなりませんwha。

 夕方5時に仕事を終えた長男が、新幹線に乗って今日のうちに帰省。何と5月6日までずっとお休みだなんて、5月は連休も土日も1日も休めない殺人的季節商売の父は猛烈に裏山鹿です。
 そういえば、4月6日に亡くなった県内同人誌主宰者Tさんを偲ぶ会が5月12日だと案内が届いた。当然、出席出来る訳がない。みずから同人から会員格下げを願い出、さらに故あって退会した元不良・札付き同人としては出席した方がいいのか、しない方がいいのか判断もつきませんが、後日ひとりで墓参りして、墓前でぶつくさ一対一の対話をする方が無難で有意義でしょう。せめて、Tさんを偲ぶ(くさす)文章でも送っておこう。

 その資料を探して昔のHTML版の日記の保存ファイルを開いてみていたらこんな文章が……青い。
書かれたことが、書いた本人固有の自己肯定のためや存 在証明のためだけに書かれたものであったなら、誰にも共感されないだろう。 私が私小説が嫌いだとか、反私小説派だとか思っているひとが少なからずいるらしいが、それは誤解だ。出来のいい私小説はへぼな虚構など吹き飛ばすだけの力を持っている。たいていの私小説を読んでうんざりするのは、自己を自己として書くことにだけ終始していて、他者としての読者にまで声が届かないからだ。どうして声が届かないか? それは多分、その書き手が自己を自己としてしか見れていないからだ。 大方の人間は、宿命的に自己と他者を見る視線が分裂している。自己を見るに甘く、他者を見るに厳しい。これは生きている限りにおいて致し方のないことであるが、小説を書くのにはいかさま邪魔になる。書くのにはむしろその反対の視線が求められる。つまり、小説の中で自己を書く際には他者を見るような厳しい視線が、他者を書く時には自己を見るような優しい眼差しが必要だ。そういう意識的操作がなされないと、ただの自己肯定に終始することになる。それでは読者に、同じ人間としての共感も理解も生まれない。
 自己という「個」を書きながらも読み手に強い共感を及ぼすことが出来るとしたら、それは徹底して自己を書くことで個を超えて他者に通じる普遍に至るという道筋しかない。 自己と他者を繋ぐ、人間として存在としての共通項を探し出し、それを表現すること。 私小説は、言ってみれば「自己の中に他者を見出す作業」であり、虚空に蜃気楼を描くような虚構の小説は、 「他者の中に自己を見出す作業」である。ぼくはたまたま後者を選んだ。このところずっと書き続けている連作短編 『静かなひとびと』も(この題名がどうも評判がよろしくないらしいが)、他者の中にどれだけ自己を、自己と繋がるものを見つけられるかという、単純素朴な動機から始まっている。どっちにしても、自分を小説の主人公にしたくても、書くほどのことが何もない。だから私小説を書かない、いや書けないだけだ。小説は嘘を書いてはいけない。 自分の体験したこと、本当にあったことしか書いてはなら ないと言われたら、明日にも小説を書くのなんかやめてしまうぞ。 ぼくが小説を書くのは、なけなしの想像力を総動員して、 他者を自分と同じ人間としてどれだけ存在感を与えられる か、信憑性を獲得出来るかということに尽きる。 考えてみれば、私小説やリアリズム小説も、嘘で固めたみたいな虚構小説も、目指すは「人間を描く」という同一の峰なのであって、アイガーを北壁から攻めるか南壁から攻めるかの相異と変わらない。そう目くじら立てるほどのことはないのだ。 ぼくは私小説だから褒めない、認めないのではない。小説としてつまらないから褒めない、認めないだけだ。その 証拠に、島尾敏雄の『死の棘』はぼくには書けない凄い小 説だと思っているし、内田百閒があったことをあったままにさりげなく書いた小説ともいえない小品に全面的に降伏 している。


 考えてみれば、過去ログそのまま残っているのはいちばん原始的なHTML版だった。CGIやレンタルブログは訳も分からず移転を繰り返したためにログを保存することもしないで閉鎖移転してしまったケースが多く、今となってはあちこち穴だらけで口惜しいが、こうして見ればまさに文章は鏡で、そこに映っている自分が恥ずかしい。恥ずかしいけれど紛れもない過去の自分がそこにいる。ウァーン・゚・(ノД`)ヽ(゚Д゚ )ナクナ

6 件のコメント:

  1. 早めの発行になりそうですね。「木曜日」の先を越してもまったくかまわないのでは? 楽しみですよ。資金繰りや、お忙しい最中なれば、Web版公開のこともあり、予定が狂うのは大変でしょうけれど、奥付発行日付までお手許に留保してしまってもよいでしょう。
    ときに、自分の古い文章を見つけると、その青さ(失礼)のなかに、自分でも忘れていた本音を見つけたりしますね。初心忘るべからず、とも限りませんが、なぜ書くのか? その答えは書き始めた頃にこそあったりします。
    さて、食料調達に、深夜の散歩に出掛けます。

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  2. そうですね、見失いかけている自分がそこにいたりします。ことに日記のような文章は自分のために書いている部分もありますから、読み返すとその頃何を考えていたか、よく分かります。
     

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  3. 「小説の中で自己を書く際には他者を見るような厳しい視線が、他者を書く時には自己を見るような優しい眼差しが必要」
    自分の作品の中には必ず、これまでの人生において自分の頭の中に刻まれた事柄や印象を文章にしている部分があります。
    決して私小説ではないのですが、私をよく知る人は
    「この部分は、あなたの実家のこと?」だとか聞かれて
    時折、どきっとします。
    私小説は絶対描かない〜といいつつ、過去の体験などがそこここに顔を出します。
    「小説を書くのは、なけなしの想像力を総動員して、 他者を自分と同じ人間としてどれだけ存在感を与えられる か、信憑性を獲得出来るかということに尽きる」
    本当に共感しました。
    「薄雪鳩が鳴いた夏」読みました。心に静かな感動が残っています。
    文芸思潮頼まれたのですね〜。5/25日発行の予定とありましたが...。私も友人の分まで2〜3冊頼むつもりです。

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  4. ほんとうに厳密には私小説というのはありえないものと思います。どこか一方的な視点で見られていたり、どこかで虚構が混じり、本当の意味で客観的に「私」を描くというのは相当にむずかしいことだと思います。
     「文芸思潮」頼みましたが、こちらの注文を確認したというような返信はありません。大丈夫でしょうか。

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  5. 「文芸思潮」を昨年でしたか、1度頼んだことがありますが、そのとき、私にも返信はなかったように記憶しています。
    でも、一年前のことですので、少し、記憶があいまいですが...。
    そのときは「銀華文学賞」という40歳か45歳以上を対象にした、文学賞に投稿して3次まで残り、見事落ちましたが、そのときに「選評必要」としておりましたら、凄く丁寧な選評が送られてきました(確か千円必要)でも、きちんと読んでいただけてたので嬉しかった記憶があります...。

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  6. 私が予約したのも「銀華文学賞」がらみです。奨励賞になった方からの連絡で。その方も福岡出身で、今は福岡に戻られています。
     だから、福岡には優秀な書き手がたくさんおいでになると実感をこめて言うのです。
     そういえば、名古屋の同人誌「じゅん文学」のHP掲示板で、文芸思潮編集者のの五十嵐さんが中京地区の書き手と懇談されるとか言う書き込みがありました。
     

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