道楽で栽培しているソバの脱穀をしていたら、小柄の老婆が畑のなかへ入って来た。
「タイヘンだね」
「いや、好きでやっていることだからタイヘンじゃないですよ」
「少し分けて欲しいんだけど」
「え、まだ葉や茎やゴミが混じっているから、篩ったり唐箕にかけたりしないと」
「いえ、私が欲しいのはそば粉」
「それじゃ、粉になるまでまだ半月くらいかかりますよ」
「静岡に送ってやりたいから」
「静岡って?」
「娘がいるんです、沼津に」
「それじゃ、製粉が済んだら電話しますから番号を教えて下さい」
「電話はね、嫁がいるから。あんたの電話を教えて。私の方から電話する」
「電話番号を書く紙とかボールペン、持ってます?」
「無いから、また明日来ます」
「え、明日ここに来るかどうか判りませんけど」
「嫁がね、私が入院している間に、着るものをみんな鋏で切っちゃった」
「ええ?!」
「まだ背中に痣が残ってるんだよ」
そういうと、老婆は背中の後ろで布製のお買い物袋を担ぐような格好でそば畑の東側の小路を南に向かって行った。
そういえば、八月にそばの種まきをしている時にも畑に入って来た老婆がいたが、それが彼女だった。その時のやり取りはこうだった。
「西瓜を売って下さい」
「同じ畑だけど、その西瓜を作っているのは私じゃなくて別のFさんなんですよ。ほら、そこに直売の看板が立っていて、次の販売日は6日って書いてあるじゃないですか。明後日、また来てみて下さい」
「今日、西瓜が欲しいの」
「それじゃ、看板に携帯電話の番号が書いてあるでしょ。電話してみて下さい」
「電話はダメなんだよ」
「電話が無いんですか?」
「電話はね、嫁が出ちやうからダメ電話できないのさ」
「そんなこと無いでしょ」
「嫁がね、私が入院している間に、着るものをみんな鋏で切っちゃった」
「ええ?!」
「まだ背中に痣が残ってるんだよ」
そういうと、老婆は背中の後ろで布製のお買い物袋を担ぐような格好で畑の東側の小路を南に向かって行ったのだった。
彼女もまた、年老いてくたびれ果てた哀しき聖母なのかもしれなかった。
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