2011年3月26日土曜日

あなた

 そこは林間の山荘のような建物であり、喫茶店でもレストランでもなかったが、二階に上がるとテーブルと椅子がいくつもあり、ほとんどの席にひとが座っていた。私はひとつだけ空いている席に座ろうとしたが、その席の椅子が妙に小さくて狭いので座るのを断念して一階に下り、玄関横のテーブルひとつにソファが入り口以外の三方向に置かれている部屋に入った。
 そして誰も座っていないソファに腰を下ろした。二階の席ではみんながコーヒーを飲んでいたが、待っていても誰も注文を取りにこないところをみると、やはり喫茶店ではないらしい。
 テーブルの上には紙が散乱していたが良く見ると鉛筆画らしかった。何枚も重なりながらずれている紙のいちばん上には、人魚のような女性が水中から半身を現わしているような、シンクロナイズド・スウィミングの選手が水中から出現したような感じで描かれていた。いや、水中ではなく紙の平面から女性の半身が立ち現われているのだった。顔のほとんどは長い髪に覆われて見えないが、女性のおなかの辺りに丸い太陽のようなものが描かれ、その太陽の中にさらに人間の目のようなものが描かれていた。太陽は女性の背後にあるのか、内部のにあるのか、判断がつかなかった。
「あなた、その絵、好き? 嫌い?」
 誰もいないと思っていたのに、テーブルの向こうから声がして、若い女性がむっくりと起き上がり私に向かって言ったので、驚いて声も出ず相手の真正面の顔をみつめた。短髪の中学生か高校生のような面立ちの少女だった。私が答えられないうちに彼女はさらに言った。
「わたし、十日ほど前に食べたリンゴの種を蒔いたの。あなた、リンゴが幾日で発芽するか、ご存知?」
「こんな寒い時期にリンゴの種を蒔いても温度不足で発芽しないと思いますよ」
「ええ? あなた、ほんとうにそうなの? こんな風に芽が出て大きくなって、庭に植えたらリンゴがなればいいのに、芽が出ないの?」
 少女は重なった紙の下の方から一枚を抜き出し、立ち上がってソファの方へ回って来て、その絵をテーブルの上に置いた。リンゴの芽かどうかは判断できないが、植物の双葉が開いて、ややひょろひょろした茎が、やはり土からではなく紙から立ち上がっていた。
 少女は私の頬に触れそうなくらい顔を接近させて言いながら、この寒いのにノースリーブの腕を私の手の甲に摺り寄せ、言った。すべすべと滑らかで柔らかく温かい彼女の腕が私の手に吸いつくような性的感触を甦らせたが、彼女は私のこどもよりさらに若く幼く純粋な眼をしていた。
「こんな風にリンゴが発芽して来たら、あなただってうれしいでしょ」
「しかし、もう少し暖かくならないと発芽しないでしょう」
「そんな風にあっさり残酷に私の夢を否定しちゃって、あなた、植物学でも専攻されたの? わたし、あなたみたいに自信たっぷりなひと、大嫌いだわ」
 そんな風に(!!)あなたあなたと続けて言われているうちに、ふとこの「あなた」という語感が偏綺館の断腸亭先生の「濹東綺譚」に登場する女性の口振りにそっくりなのに気がついた。
 
 見ると、そういう彼女も腰から下が無くて、ソファから直接上半身が立ち上がっているのであった。

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