2011年3月25日金曜日

こんな風に言葉は

 相変わらずモーターについて検索。またディスクグラインダーの中古と新品の価格調査。ホームセンターにも行ってみたが、高いの安いの、その価格の差の激しいこと。
 DIY用は数千円と安い。素人が石を磨いたりペンキ塗りの前の錆び取りをする程度の使い方なので、中古でもDIY用でも一向に構わない。

 Twitterは誰かにフォローされ、誰かをフォローしてこそTwitterなのであるけれど、誰にもフォローされず、だれもフォローしていない私のTwitterは微妙にTwitterではない。
 それが今夜うっかり以下のようにツイートしてしまった。
被爆するのが自衛隊員であったり協力企業の社員であったり、東電の社員は原発敷地内にいないのだろうか? 危険な現場作業はすべて協力企業任せ? 下請企業と言わずに協力企業とはこれいかに?


 協力という言葉がこんな風に使われてはかわいそうであるが、言葉は常に道具として使われるという側面を持っている。
 たとえばかつてブログで書いたことがあったが、私は450坪ほどの小さな水田を先祖から受け継いで所有している。小さな水田と書いたが、水田など所有しないひとから見たら決して小さくない面積であるのかもしれない。
 そこで私は「自分で食べる米くらいは自分で作っています」と言えば殊勝であるけど、同じ行為を「ひとが食べる分までは作らないのです」と言ってしまえば何とも傲慢な言葉になってしまうのである。  
 このように、単なる伝達手段としての言葉はその持つ本来の意味を換骨脱退される宿命を負っている。
 言葉には意味の伝達手段としての機能と、純粋な言語表現としての機能の両方を持ち合わせているのだ。

 そういえば最近RSSリーダーに登録させていただいた怪しくも頼もしいお兄さんの本日のブログに以下くだりがあった。

放射能で、汚染された、かわいそうな野菜たち
洗えば、何も問題ないのにと
思っているのは、ヒロさんだけだろうか・?。
空気中に、舞っている
放射能を浴びた、分子が
雨によって、地表に落ちただけである。
洗い流せば、問題ない。

データーを出さなければ
隠ぺいだ と言われるし
出せば、すぐに
パニックになる
日本人の
悪いところである。


 除染などという難しい言葉を使ってはいても実態は水で洗うのが主であるらしいので、このお兄さんの言うことには同感であるが、洗ってもすべての放射能が除染できるわけではない。また野菜は洗えるが水は洗えない。洗えないがヨウ素は半減期が短い。むしろ半減期が長いセシウムの方が怖い。それよりも原子炉そのものの溶解の方がもっと怖い。

 ここでも除染という言葉が、水で洗うだけなのに使う者に都合よく使われ、いかにも除染すれば放射能が無くなるかのように使われている。正しくは、除染しても落とせない放射能があり、長い間に人体に悪影響を及ぼすはずなのである。
 野菜や人体に付着した放射性物質は洗い流せても、人体や野菜に浸透した放射能は洗い流せないし除染など出来ないのである。
 にもかかわらず除染という言葉はその事実を隠蔽する役割を担わされているのである。
 悲しいことに、こんな風に言葉は、いつでも冒され、犯され、侵されてしまう宿命にある。

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