2001年5月20日日曜日

ありがとう

「真実」とは何だろう?
「真実」が必ずしも人を生かすものではなく、むしろ反対に人が生きることを邪魔するものだとしたら?
気づかぬ振りをしてそっと通り過ぎる?  小説なんか書かず読まず、何も考えず、感じずに?
(正確には覚えていないが、狂歌にこんなのがあった。
ひとの子は寝て起きて食って厠行き子は親になり子は親になり)

「ミリンダ王の問い」(平凡社・東洋文庫)にはこう書かれていて、ニーチェも「悲劇の誕生」でそれを拝借して命題としている。
……「人間にとって至善は?」……「生まれなかったこと。次善は、今すぐ死ぬこと」
うーん、生きるのも死ぬのも同じくらい難しい。

……悲しみはきはまりの果て安息に入ると封筒のなかほの明るし……浜田到5月21日同人誌やホームページのレイアウトをする関係から、それらの行間・字間がとても気にかかる。プリント・アウトされた原稿やネット上に公開された小説などを読むのに、もっとも閉口するのが行間・字間のバランスがまったく考慮されていないケースである。
字間が間延びしていて行間が狭い、これが最悪で読みにくいったらありゃしない。気が弱いから口に出して言わずにじっと我慢して読むのだが、ほんとはつらい。
とはいえ、雑誌のレイアウトもホーム・ページのレイアウトも誰にも教わらずに自己流・無手勝流でやっているのだから、あまりひとのことは言えない。

ボリス・ヴィアンの「赤い草」とチェーホフの「名の日の祝い」を読み直したいと思いつつ、日が過ぎている。あの時代にチェーホフが女性の視点であのような小説を書いたことは驚きである。フェミニスト・チェーホフ。

また就寝前に荷風の「断腸亭日乗」を少しずつ読みたい。
埴谷さんの「死霊」も気にかかっているが、あれを読むと妙に眠気が。頭が悪いせいでそうなのかと思いこんでいたが、ふとそうではないような気がした。実は埴谷さんの文章は小説の文章としてはかなりの悪文なんだと。悪文であっても「死霊」の価値はちっとも下がらないのだけど、バッハの無限カノンみたいに果てしない文章はやはり眠気を誘う。

しかし、それにしてもひとは自我から抜けられないものだな、と。
こうして書かれる文章のすべてが僕の影であって、僕自身ではないのだ。
「kojimaさんが書くものはものすごくネガティヴだ。けれども、背後に確固たるポジティヴを所有していなければ、ネガティヴな世界は書けない」と、長いつきあいの年下の文学友だちは言ってくれた。
それだけじゃないんだけどね、ありがとう。

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