2011年11月10日木曜日

佐久間慶子『川向こうの預言者』

 「繋」6号(大阪府・10月10日発行)

 雑誌を送っていただいてすぐに読み始めたのだったけれど、じきに日常の多忙に紛れて中断し、この頃になってようやく読了した。
 ただし、末尾に「それぞれの修行編・了」と記されているので、そうか、これで終わりではなく、更に別の編が続くのだなと思うと感想が書きにくくなったが、楽しみが先送りされてわくわくもし、以下、思うがままに書き残しておこうと思う。

 先ずは、「百花繚乱...」といい「川向こうの預言者」といい、佐久間さんて何てデフォルメされた存在としての人間を描くのが上手なんだと感心した。
 そしてこの二作を拝読しながら、1932年にアメリカで制作・公開された『フリークス』 (Freaks)という映画を思い出した。
 この映画は文字通りの肉体的畸形を負っている彼や彼女たちが主人公であったのだが、佐久間さんの「川向こうの預言者」に登場しているのは、そういう肉体的・物理的畸形を負った彼や彼女たちではない。
 いや、やや常識的数値を超えた肥満や痩せである彼女や彼が登場してはいるのだが、そんなことは問題ではない。これに近い肥満や痩せは現実に存在している。
 問題は、記録する者として選ばれた「わたし」が直面した、この宗教団体とも邪宗とも言えないほどの小さな怪しい宗教グループの構成員のひとりひとり、すなわち肥満体の「預言者デブリ」、あるいは今にも死にそうに痩せた「修行者ガリリ」、あるいはアリアドネーさながら独特の迷宮ダンスを踊る「神の踊り子フルフル」、意味があって無い言葉を発し連ねる「空洞詩人カラン」、そんな彼らがどことなくだが、決定的に普通の人間ではないことである。
 彼らは、映画「フリークス」の彼らのような肉体的・物理的畸形としてのフリークスでは決してない。けれども、彼らは人間という名の存在としては不確かな、畸形=フリークスである。
 にもかかわらずである。そんなフリークスな彼らが何と生き生きと描かれていることか。私が佐久間慶子さんを賛嘆するのは、このような現実には在りない畸形=フリークスとしての人間を活写していることである。
 一人でも多くの書き手=読み手に読んで欲しい小説であることは間違いない。


0 件のコメント:

コメントを投稿