2011年12月1日木曜日

部分で全体を

 小説というものが、ある意味、ひとりの生き方なり、ひとつの家なり社会なり世界なりの全体を提示するものであるとして、だからこそ徒労といえるほどに夥しい言葉を費やしてひとつの物語が生じる。
 物語、それは確たる視点を以って描かれた人間、時制、世界のひとつのまとまりではある。しかしそれさえも実は単なるコンベンション(約束事)に過ぎないのではないか。
 たとえば、ひとりの人間がいつでも同じ人間であるか否かと考えてみると、私自身も含めて誰もかもが、どうも怪しい。ひとりの人間に百の顔を見ることだってあり得ないことではない。見るたびに、会うたびにどこか違うのである。やさしく見えたひとがとても怖く見えたりして。となるとひとりの人間がひとつの確固たる人格やアイデンティティを保有している、確固たる時制や世界を所有している、ひとつの統一された人生としての物語を生きている、などとは考えられないのではないか。

どうも怪しいことばかり考えているので、ますます正統な小説から遠ざかってしまいます。
ま、部分を描いて全体を暗示できればいいくらいに考えましょう。




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昨年も同じことをしたが、妻がキムチの材料に芹を購入して根の部分を捨てたので、拾って小さな器にさして水を入れておいたら芽が出て来て茎や葉がぐんぐん伸びはじめた。
実は芹のてんぷらで蕎麦を食べるのもおいいしいのだが、それはこんなに伸びない地の芹の方が風味が強くておいしい。


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