2016年8月26日金曜日

昔の日記から

書かれたことが、書いた本人固有の自己肯定のためや存 在証明のためだけに書かれたものであったなら、誰にも共感されないだろう。 小島は私小説が嫌いだとか、反私小説派だとか思っているひとが少なからずいるらしいが、それは誤解だ。出来のいい私小説はへぼな虚構など吹き飛ばすだけの力を持っている。たいていの私小説を読んでうんざりするのは、自己を自己として書くことにだけ終始していて、他者としての読者にまで声が届かないからだ。どうして声が届かないか? それは多分、その書き手が自己を自己としてしか見れていないからだ。 大方の人間は、宿命的に自己と他者を見る視線が分裂している。自己を見るに甘く、他者を見るに厳しい。これは生きている限りにおいて致し方のないことであるが、小説を書くのにはいかさま邪魔になる。書くのにはむしろその反対の視線が求められる。つまり、小説の中で自己を書く際には他者を見るような厳しい視線が、他者を書く時には自己を見るような優しい眼差しが必要だ。そういう意識的操作がなされないと、ただの自己肯定に終始することになる。それでは読者に、同じ人間としての共感も理解も生まれない。
 自己という「個」を書きながらも読み手に強い共感を及ぼすことが出来るとしたら、それは徹底して自己を書くことで個を超えて他者に通じる普遍に至るという道筋しかない。 自己と他者を繋ぐ、人間として存在としての共通項を探し出し、それを表現すること。 私小説は、言ってみれば「自己の中に他者を見出す作業」であり、虚空に蜃気楼を描くような虚構の小説は、 「他者の中に自己を見出す作業」である。ぼくはたまたま後者を選んだ。このところずっと書き続けている連作短編 『静かなひとびと』も(この題名がどうも評判がよろしくないらしいが)、他者の中にどれだけ自己を、自己と繋がるものを見つけられるかという、単純素朴な動機から始まっている。どっちにしても、自分を小説の主人公にしたくても、書くほどのことが何もない。だから私小説を書かない、いや書けないだけだ。小説は嘘を書いてはいけない。 自分の体験したこと、本当にあったことしか書いてはなら ないと言われたら、明日にも小説を書くのなんかやめてしまうぞ。 ぼくが小説を書くのは、なけなしの想像力を総動員して、 他者を自分と同じ人間としてどれだけ存在感を与えられる か、信憑性を獲得出来るかということに尽きる。 考えてみれば、私小説やリアリズム小説も、嘘で固めたみたいな虚構小説も、目指すは「人間を描く」という同一の峰なのであって、アイガーを北壁から攻めるか南壁から攻めるかの相異と変わらない。そう目くじら立てるほどのことはないのだ。 ぼくは私小説だから褒めない、認めないのではない。小説としてつまらないから褒めない、認めないだけだ。その 証拠に、島尾敏雄の『死の棘』はぼくには書けない凄い小 説だと思っているし、内田百閒があったことをあったままにさりげなく書いた小説ともいえない小品に全面的に降伏 している。

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